11.21.23:11
[PR]
10.26.09:20
A級戦犯とはいったい何か_その2
引き続き、論文投稿です。
「東京裁判」についてはたくさん本も出ています。
いろんな角度から見てみるのもいいかと思います。
2.ポツダム宣言と東京裁判
― 戦犯とは誰が名付けたか ―
昭和20年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌15日には「終戦の詔書」がラジオを通して発表され、日本軍は降伏いたしました。
ポツダム宣言の第10条には「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ」とあります。我が国政府としても戦争終結を決意した時点で、連合国の法廷で日本人戦犯が裁かれることを予期していたと思われますが、当時はまだナチスドイツの戦犯を裁く「国際軍事裁判所条例」も公表されてはおらず、あのような形で戦争指導者の個人責任までも問われようとは考えられてはいませんでした。8月30日に連合国軍最高司令官ダグラスマッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着。
9月2日に戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われ、それ以後日本は連合国軍の軍事的管理下に入り、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれました。GHQの占領目的はポツダム宣言を日本に実行させることに有りましたが、それを一言で言うと「日本の軍国主義及び軍国的国家主義を根絶し、日本を再び世界(連合国)の平和と安全の脅威にならぬようにする」ことでした。これらは具体的な形で次々と実行に移されていきましたが、その中で憲法改正、旧指導者の追放(公職追放)とともに占領政策の大きな支柱の一つとなったのが戦争犯罪人の処罰でした。
戦争犯罪人の処罰は、前述したように「ポツダム宣言」に明記された降伏条件の一つですが、第一次世界大戦までの戦争裁判のように、ただ単に捕虜虐待等の戦争法規違反者のみを処罰しただけでは、占領目的である「日本の軍国主義、超国家主義の根絶」にはつながらない、戦争当時の日本政府並びに軍の責任ある立場にあった者も処罰しなければその目的は達成し得ない、と連合国側は考えました。要するに日本の指導者を戦争犯罪人として連合国の法廷に引き出せば、彼らの権威を引きはぐとともに、その権威が基礎を置いていた理念、つまり連合国の言ういわゆる軍国主義、超国家主義等を日本国民自ら否定させる効果が期待できると考えたわけです。そして裁判の形を取る以上、連合国が戦争に勝ったのは単に軍事的に優勢であっただけではなく、連合国にこそ”正義”が存在したからだ、ということを日本国民に見せつける効果もあると考えたわけです。
そこでGHQでは、すぐに戦争犯罪人容疑者の選定と逮捕に踏み切るとともに、裁判運営の為の訴訟手続きの策定など戦犯裁判の準備を急ぎ、翌昭和21年1月19日マッカーサー連合国軍最高司令官名で「極東国際軍事裁判所条例」を布告しました。この条例は、ナチス戦犯を裁いたニュールンベルグ裁判の為の国際軍事裁判所条例に全面的に依拠しており、戦争犯罪の定義として、次の三つを定めました。
① 「平和に関する罪」 (共同謀議して、侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して
世界の平和を攪乱した罪)
② 「通例の戦争犯罪」 (戦争の法規及び慣例に違反した罪)
③ 「人道に対する罪」 (非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、奴隷的虐待、追放その他
の非人道的行為)
そして、4月29日、極東国際軍事裁判所の検察局は多数の戦犯容疑者のうちから28名をA級戦争犯罪人として同裁判所に起訴し、5月3日より公判が始まりました。
このA級戦犯を裁いた裁判がいわゆる「東京裁判」です。判決は、二年後の昭和23年11月12日に下され、7名が死刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑となりました。(大川周明氏は進行麻痺のため免訴、松岡洋右・永野修身の両氏は裁判中病死)
これらのA級戦犯の他にも、「通例の戦争犯罪」を行ったとされて、内地をはじめ中国・東南アジア・太平洋地域の各地で開かれた連合国各国の軍事裁判で有罪となった人々も多数居ます。この人々は「B,C級戦犯」と呼んでA級戦犯と区別されています。B級とは「俘虜虐待行為の監督、命令にあたった者」C級は「その直接実行者」としていますが、これらはパリの不戦条約(昭和3年)を不法に拡大解釈すると共に、これまでの国際法の一切の実定法・慣習法にもない、一方的に曲解した法解釈をでっちあげた結果によるものです。
因みに極東国際軍事裁判所をはじめ各地の戦犯法廷で裁かれ、「戦犯」として死刑の判決を受けた人の総数は一千名を超え、そのうち九百余名に死刑が執行されました。
(文獻 山村太守)
「東京裁判」についてはたくさん本も出ています。
いろんな角度から見てみるのもいいかと思います。
2.ポツダム宣言と東京裁判
― 戦犯とは誰が名付けたか ―
昭和20年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌15日には「終戦の詔書」がラジオを通して発表され、日本軍は降伏いたしました。
ポツダム宣言の第10条には「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ」とあります。我が国政府としても戦争終結を決意した時点で、連合国の法廷で日本人戦犯が裁かれることを予期していたと思われますが、当時はまだナチスドイツの戦犯を裁く「国際軍事裁判所条例」も公表されてはおらず、あのような形で戦争指導者の個人責任までも問われようとは考えられてはいませんでした。8月30日に連合国軍最高司令官ダグラスマッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着。
9月2日に戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われ、それ以後日本は連合国軍の軍事的管理下に入り、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれました。GHQの占領目的はポツダム宣言を日本に実行させることに有りましたが、それを一言で言うと「日本の軍国主義及び軍国的国家主義を根絶し、日本を再び世界(連合国)の平和と安全の脅威にならぬようにする」ことでした。これらは具体的な形で次々と実行に移されていきましたが、その中で憲法改正、旧指導者の追放(公職追放)とともに占領政策の大きな支柱の一つとなったのが戦争犯罪人の処罰でした。
戦争犯罪人の処罰は、前述したように「ポツダム宣言」に明記された降伏条件の一つですが、第一次世界大戦までの戦争裁判のように、ただ単に捕虜虐待等の戦争法規違反者のみを処罰しただけでは、占領目的である「日本の軍国主義、超国家主義の根絶」にはつながらない、戦争当時の日本政府並びに軍の責任ある立場にあった者も処罰しなければその目的は達成し得ない、と連合国側は考えました。要するに日本の指導者を戦争犯罪人として連合国の法廷に引き出せば、彼らの権威を引きはぐとともに、その権威が基礎を置いていた理念、つまり連合国の言ういわゆる軍国主義、超国家主義等を日本国民自ら否定させる効果が期待できると考えたわけです。そして裁判の形を取る以上、連合国が戦争に勝ったのは単に軍事的に優勢であっただけではなく、連合国にこそ”正義”が存在したからだ、ということを日本国民に見せつける効果もあると考えたわけです。
そこでGHQでは、すぐに戦争犯罪人容疑者の選定と逮捕に踏み切るとともに、裁判運営の為の訴訟手続きの策定など戦犯裁判の準備を急ぎ、翌昭和21年1月19日マッカーサー連合国軍最高司令官名で「極東国際軍事裁判所条例」を布告しました。この条例は、ナチス戦犯を裁いたニュールンベルグ裁判の為の国際軍事裁判所条例に全面的に依拠しており、戦争犯罪の定義として、次の三つを定めました。
① 「平和に関する罪」 (共同謀議して、侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して
世界の平和を攪乱した罪)
② 「通例の戦争犯罪」 (戦争の法規及び慣例に違反した罪)
③ 「人道に対する罪」 (非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、奴隷的虐待、追放その他
の非人道的行為)
そして、4月29日、極東国際軍事裁判所の検察局は多数の戦犯容疑者のうちから28名をA級戦争犯罪人として同裁判所に起訴し、5月3日より公判が始まりました。
このA級戦犯を裁いた裁判がいわゆる「東京裁判」です。判決は、二年後の昭和23年11月12日に下され、7名が死刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑となりました。(大川周明氏は進行麻痺のため免訴、松岡洋右・永野修身の両氏は裁判中病死)
これらのA級戦犯の他にも、「通例の戦争犯罪」を行ったとされて、内地をはじめ中国・東南アジア・太平洋地域の各地で開かれた連合国各国の軍事裁判で有罪となった人々も多数居ます。この人々は「B,C級戦犯」と呼んでA級戦犯と区別されています。B級とは「俘虜虐待行為の監督、命令にあたった者」C級は「その直接実行者」としていますが、これらはパリの不戦条約(昭和3年)を不法に拡大解釈すると共に、これまでの国際法の一切の実定法・慣習法にもない、一方的に曲解した法解釈をでっちあげた結果によるものです。
因みに極東国際軍事裁判所をはじめ各地の戦犯法廷で裁かれ、「戦犯」として死刑の判決を受けた人の総数は一千名を超え、そのうち九百余名に死刑が執行されました。
(文獻 山村太守)
PR
- トラックバックURLはこちら