11.21.22:44
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10.26.09:40
A級戦犯とはいったい何か_その3
続けます。
3. 東京裁判は国際法を無視した報復裁判である
東京裁判については先に述べたところですが、そもそも「戦争犯罪人であるか、ないか」は、結局”東京裁判を如何に考えるか”という問題に帰着します。それでははたして東京裁判は正しい裁判だったのでしょうか。従来、戦争は国際法の上から見て合法的な手段であると認められていました。クラウゼヴィッツが有名な「戦争論」の中で「戦争は形を変えた政治的手段である」と主張しているように、戦争は容認され、国家に与えられた基本権だったのです。
ただその中で戦争の手段、方法は人道的見地から法的に規制されていました。当時交戦法規違反として禁じられていたのはたとえば、非戦闘兵の殺傷、非防守都市ないし、非軍事目標への攻撃、不必要な残虐兵器の使用、捕虜の虐待であり、戦争自体を計画することや準備すること、実行する事であり、戦争それ自体は、違法では無かったのです。つまり、当時考えられていた「戦争犯罪人」とは、交戦法規に違反した者のことで、相手側の交戦国が戦時中にこのものを捕らえたときには「戦争犯罪人」として処罰することが出来たのです。
また、連合国が起訴する際の基礎にした不戦条約には①国際紛争解決のため戦争に訴えることを不法とし、②一切の紛争を平和的手段により解決すべき事が定められ、侵攻戦争を違法化していましたが、自衛の為の戦争は禁止していませんでしたし、何が侵攻戦争であり何が自衛戦争であるかも、当事国の解釈に委ねられていました。そして、たとえ侵攻行為の認定が可能だとしても、その違法行為(国際不法行為)責任は生じますが、犯罪責任は生じ得なかったのです。
このように考えてくると、ポツダム宣言第十条にある「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」の中に、東京裁判で訴因として上げられた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、決して当時の国際法上の「戦争犯罪」に含まれる物ではなかったことが、はっきりわかります。インド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際正義の観点とはおよそ縁遠い。
こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけの物であって究極的には後悔を伴うことは必然である」として「全員無罪」を主張しましたが、その主張のように連合国は国際法に準拠する装いをしながら、実際には国際法を無視した違法な報復裁判を実施したわけです。
さらに、東京裁判が国際裁判であるならば当然、戦争の勝者だけでなく敗者と中立国も加えて裁判を構成しなければならないはずですが、東京裁判では、裁判を構成する判事十一名が何れも戦勝国で占められ、検事の役割も戦勝国のみで担当されました。このようなところから見ても、勝者である連合国が敗者である我が国を一方的に裁いた裁判であったと言うことが出来ます。
さらに重要なことは、この裁判が事後法禁止の原則と罪刑法廷主義の原則に違反していることです。法治国においては、この二つは根本原則となっています。その原則から言えば、東京裁判の法的根拠となっているポツダム宣言が発せられた昭和二十年(1945年)7月26日の時点に置ける戦争、即ち大東亜戦争のみが裁判の対象とならなければならないのに、対象を拡大して昭和6年の満州事変以降、大東亜戦争までの一切を対象としています。
昭和58年5月28、29日の両日、東京池袋のサンシャインシティーで行われた「東京裁判シンポジウムの際、西ドイツ、ルール大学学長のクヌートイブセン博士は、「平和に対する罪を裁く東京裁判の管轄権は、その当時有効であった国際法に基づくものではなかった」「裁判所条例は、事後立法を含んでいて、東京裁判自体により”一般的な正義の原則”と認められていた罪刑法定主義とは相容れない物だった」「大多数の国は現在でも国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意が出来ていない」と国際法に対する違法性を端的に述べています。
これが、今日の東京裁判理解の常識と言えましょう。以上のように、東京裁判は国際法準拠を装いながらも、実際はそれを歪曲拡大解釈し、我が国の戦時指導者を戦争犯罪人としたものであり、我が国に対する報復裁判以外の何物でもないのです。
(文獻 山村太守)
3. 東京裁判は国際法を無視した報復裁判である
東京裁判については先に述べたところですが、そもそも「戦争犯罪人であるか、ないか」は、結局”東京裁判を如何に考えるか”という問題に帰着します。それでははたして東京裁判は正しい裁判だったのでしょうか。従来、戦争は国際法の上から見て合法的な手段であると認められていました。クラウゼヴィッツが有名な「戦争論」の中で「戦争は形を変えた政治的手段である」と主張しているように、戦争は容認され、国家に与えられた基本権だったのです。
ただその中で戦争の手段、方法は人道的見地から法的に規制されていました。当時交戦法規違反として禁じられていたのはたとえば、非戦闘兵の殺傷、非防守都市ないし、非軍事目標への攻撃、不必要な残虐兵器の使用、捕虜の虐待であり、戦争自体を計画することや準備すること、実行する事であり、戦争それ自体は、違法では無かったのです。つまり、当時考えられていた「戦争犯罪人」とは、交戦法規に違反した者のことで、相手側の交戦国が戦時中にこのものを捕らえたときには「戦争犯罪人」として処罰することが出来たのです。
また、連合国が起訴する際の基礎にした不戦条約には①国際紛争解決のため戦争に訴えることを不法とし、②一切の紛争を平和的手段により解決すべき事が定められ、侵攻戦争を違法化していましたが、自衛の為の戦争は禁止していませんでしたし、何が侵攻戦争であり何が自衛戦争であるかも、当事国の解釈に委ねられていました。そして、たとえ侵攻行為の認定が可能だとしても、その違法行為(国際不法行為)責任は生じますが、犯罪責任は生じ得なかったのです。
このように考えてくると、ポツダム宣言第十条にある「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」の中に、東京裁判で訴因として上げられた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、決して当時の国際法上の「戦争犯罪」に含まれる物ではなかったことが、はっきりわかります。インド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際正義の観点とはおよそ縁遠い。
こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけの物であって究極的には後悔を伴うことは必然である」として「全員無罪」を主張しましたが、その主張のように連合国は国際法に準拠する装いをしながら、実際には国際法を無視した違法な報復裁判を実施したわけです。
さらに、東京裁判が国際裁判であるならば当然、戦争の勝者だけでなく敗者と中立国も加えて裁判を構成しなければならないはずですが、東京裁判では、裁判を構成する判事十一名が何れも戦勝国で占められ、検事の役割も戦勝国のみで担当されました。このようなところから見ても、勝者である連合国が敗者である我が国を一方的に裁いた裁判であったと言うことが出来ます。
さらに重要なことは、この裁判が事後法禁止の原則と罪刑法廷主義の原則に違反していることです。法治国においては、この二つは根本原則となっています。その原則から言えば、東京裁判の法的根拠となっているポツダム宣言が発せられた昭和二十年(1945年)7月26日の時点に置ける戦争、即ち大東亜戦争のみが裁判の対象とならなければならないのに、対象を拡大して昭和6年の満州事変以降、大東亜戦争までの一切を対象としています。
昭和58年5月28、29日の両日、東京池袋のサンシャインシティーで行われた「東京裁判シンポジウムの際、西ドイツ、ルール大学学長のクヌートイブセン博士は、「平和に対する罪を裁く東京裁判の管轄権は、その当時有効であった国際法に基づくものではなかった」「裁判所条例は、事後立法を含んでいて、東京裁判自体により”一般的な正義の原則”と認められていた罪刑法定主義とは相容れない物だった」「大多数の国は現在でも国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意が出来ていない」と国際法に対する違法性を端的に述べています。
これが、今日の東京裁判理解の常識と言えましょう。以上のように、東京裁判は国際法準拠を装いながらも、実際はそれを歪曲拡大解釈し、我が国の戦時指導者を戦争犯罪人としたものであり、我が国に対する報復裁判以外の何物でもないのです。
(文獻 山村太守)
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そうでしたか・・
東京裁判も戦争の延長ですね。
東京の空襲や広島、長崎の原爆こそ裁かれるべきですが、、不当な裁判ですね。
ところで長文、すごいですね。勉強になりました。 ただ、このことも疑問におもったり、
そもそも40代、50代でも東京裁判て何?っていう人が多いです。疑問以前の問題です。
70年も経つので仕方がないのかな・・
勉強になりました。
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